カテゴリ
以前の記事
2017年 11月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2013年 07月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 お気に入りブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2016年 01月 07日
凄い!!
69歳(1946年5月1日)、プロ野球ロッテの「バッティング投手」。 ほぼ同じ年。 軽く投げて、120~125km/hr。 「スナップ」投法が素晴らしい!! 通算13勝12敗、防御率=3.53。 akiじい・・・55歳の時、草野球ながら7回完投したが、精々102km/hr。 以下、ネット記事転載 透き通る青空、5月晴れ。爽やかな風が吹き抜ける住宅街に、乾いた音が響く。1年のうちで一番過ごしやすいと感じるこの季節にも関わらず、ロッテ浦和球場で練習する選手の額からは大粒の汗が流れていた。 武蔵浦和駅で降り、新幹線の線路沿いをしばらく歩いた先、右手に見えてくる緑色のネット。ここが、ロッテ浦和球場(埼玉県)だ。この日は若手からベテランまで、一軍でのチャンスを待つ選手たちが、各々の課題に真剣な表情で取り組んでいた。 打撃投手だけでなく寮長として若手を教育する池田重喜氏 打撃投手だけでなく寮長として若手を教育する池田重喜氏 その中で、ニコニコとした表情でキャッチボールをする男がいた。顔には深いシワが刻み込まれ、日に焼けた肌が笑った時の歯の白さを際立たせている。 「池田重喜、68歳」――この年齢にして、今も現役の打撃投手だ。1967年、大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)でプロ野球選手となり、4年目にロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に移籍。以来、選手、コーチ、打撃投手としてチームを支え続けてきた。 この日も二軍で調整中のG.G.佐藤、大松尚逸らの打撃投手を務め、107球を投じてボール球はわずか5球。ストライク率95.3%と驚異のコントロールを見せつけていた。いや、そもそも68歳で100球も投げられるものなのか。選手8年、裏方38年、合わせて46年。永きに渡り”プロ野球”という世界とともに生きてきた男の目には、この世界はどのように映ってきたのだろうか。招かれるまま、私はロッテの選手寮へと足を踏み入れた。 1946年、池田は11人兄弟の末っ子として大分県臼杵市に生まれた。幼い頃から野球に傾倒し、中学卒業後は津久見高校に進学。2年時に甲子園の土を踏んだ。その後、社会人野球の日鉱佐賀関に進み、1年目の1965年11月、記念すべき第1回ドラフト会議で広島から15位で指名を受けた。当時のドラフトは今ほど完成されたものではなく、紙に自分の名前が書いてあるのを見て、初めて指名を受けたことを知ったという。だが池田は、チームに残留することを決意。そして1967年に都市対抗野球初出場を果たすと、その年の秋、大洋ホエールズから4位で指名を受け入団を決めた。 入団後は中継ぎ投手として活躍し、3年間で103試合に登板。プロ野球の舞台でも実力を発揮した。だが、3年目のオフ、トレードでロッテオリオンズに移籍。1年目こそ31試合に登板するなど、大洋時代と変わらない活躍を果たすが、翌年は肩の故障によりわずか6試合の登板にとどまる。以後、肩痛に悩まされることになる(しかし、3年前の2011年、なんと肩痛が完治したそうだ。本人曰く「オフにずっと石を投げ続けていたら治った」らしい。恐るべき体である)。 . にほんブログ村
by aki_1947
| 2016-01-07 08:46
| 記事
|
ファン申請 |
||